世界一周JKまなみのブログ

世界一周の旅に出た女子高校生が書くリアルな日記

アルメニアとトルコの確執

 

今はアルメニアの首都エレバンにいる。

 

 

 

 

アルメニア

黒海カスピ海に挟まれた

コーカサス地方の南部に位置する国だ。

 

 

アルメニア自体は海には面していなくて、

大きさは中国地方程度。

 

 

 

 

 

 

 

2週間ほど前

トルコにいたとき私は

 

 

これから

ジョージアアルメニアアゼルバイジャン

 

 

コーカサス地方三国に行こうと思い、

色々調べ物をしていた。

 

 

 

 

そして、この周辺は

国同士の関係が複雑である

ということがわかった。

 

 

 

 

簡単に言うと

 

アルメニアアゼルバイジャン

アルメニアとトルコ

 

は関係が良好ではない。

 

 

 

 

 

 

そして、

トルコからの移動ルートを考えていたとき

 

トルコ=アルメニア間の国境は開かれていない

 

という情報が出てきた。

 

 

 

 詳しく調べていくと、

トルコ=アルメニアは国交が断絶していた時期があるということが分かった。

 

 

2009年に回復はしているのだが

今も良い関係とは言えないだろう。

 

 

 

 

 

 

では、なぜ二国間の国交は断絶していたのか。

 

 

 

 

 

 

その大きな原因であるのが

アルメニア人虐殺」だ。

 

 

 

 

私はこれを詳しく知るべく

エレバンの虐殺記念館に向かうことにした。

 

 

 

 

 

この出来事は、

19世紀末と20世紀初頭の二度にわたって起きたのだが、

 

一般的に「アルメニア人虐殺」というと

第一次世界大戦中の方を指すようだ。

 

 

 

 

 

完璧ではないが大まかな流れは以下。

 

 

 

当時オスマン帝国(後継国トルコ)は

ドイツ・オーストリア=ハンガリー帝国率いる

同盟国側だった。

 

対する連合国側は

フランス・イギリス・ロシア帝国

 

 

 

元々アルメニア人は

オスマン帝国ロシア帝国の両国に

分割されて暮らしていた。

 

 

 

そんな中、オスマン帝国

自国の領土にいるアルメニア人が

列強ロシアに外圧を要請することを懸念した。

 

 

 

また1914年10月時点で

敵軍であるロシア軍には

18万人のアルメニア人兵と

8000人のアルメニア人志願兵がいたという。

 

 

 

 

開戦後間もなくして

アルメニア人の役人の解雇や

兵士の配置替えも行われた。

 

 

 

そしてついに、

 

1915年4月24日

 

当時のオスマン帝国

首都コンスタンティノープル

(現イスタンブール)において

 

200人以上のアルメニア人知識層を率いていた

リーダーである詩人ダニエル・ヴァルジャンが

強制連行される。

 

 

 

その後約250人もの

政治家や画家、詩人、作家などの優秀な知識人たちが捕らえられ、国外追放や殺害されてしまう。

 

 

 

これを機に

大量のアルメニア人の逮捕、追放、殺戮が本格的に始まった。

 

 

そのため、

4月24日は「ジェノサイド記念日」とされ

追悼の日になっている。

 

 

 

そして、オスマン帝国内の丈夫な男性たちの多くが殺害された後

 

同年8月

女性や子供、お年寄り、病弱な人たちといった何十万人ものアルメニア人が

国外追放によりシリア砂漠に強制移住をさせられる。

 

移住と言っても、

勿論自力で歩いて向かうことを強いられるわけだが、

 

砂漠に向かう死の行進の途中で

飢えや渇きによって亡くなったり、

 

日常的に行われていた

拷問や大量射殺、焼殺、毒殺によって

何人ものアルメニア人が殺害されてしまう。

 

 

砂漠に辿り着いた人々も

その後強制収容所へ送られて殺されたという。

 

 

 

 

 

 

記念館の中には、

当時の残虐な行為の資料なども残っていた。

 

 

 

 

 

しかし、これはあくまでも

アルメニア側の見解」

という必要がある。

 

 

 

 

と言うのも、

トルコ側はこの事実を虐殺として認めてはいなく、戦争による不慮の事故や病気によって亡くなったと主張している。

 

 

 

だからこそ、私はこの場所を訪れた。

 

 

 

 

犠牲者の人数にも、両者の間でかなりの差が出ていて

 

アルメニア側は150万人

トルコ側は20万人

 

と言っている。

 

 

 

 

しかし数がどうと言うよりは、

沢山のアルメニア人が犠牲になっているという事実は変わりない。

 

 

f:id:sekaijkmanami:20200208180125j:image

(記念館の敷地にあるモニュメント)

 

 

事実を知り、この場で追悼することが

私にできることだ。

 

 

 

 

 

このような出来事の他にも、トルコが、

アルメニアと関係の悪いアゼルバイジャン側の立ち位置であるといった背景もあって、

アルメニア=トルコ間の確執は根深い。

 

 

 

 

 

 

 

今回、私は

たまたまトルコからの陸路移動を考えていたために、この出来事について知ることができた。

 

 

 

今の時代

アルメニア 虐殺 」

とネットで調べてしまえば、大体のことは申し分なくわかるだろう。

 

 

 

しかし、自分足でその場を訪れ

現地の人々が何を思い、どう考えているのかとともに事実を知ることは

文字だけで情報を手に入れるよりも

はるかに重要なことであるし、

その分考えさせられることも多いと思う。

 

 

 

 

 

長くなりましたが

今回のアルメニアでの最大の目的であった

場所で学んだことです。

 

 

最後まで読んでくださってありがとうございます。

 

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